仕事部屋にて「睥睨するネコ」
夜中にひとりで作業していると、ふと、なにかこう、もの悲しくなってくるときがある。
締め切りが明日の朝に迫っているような、マジでヤバイときにはそんなことは考える余裕もないのだが、今夜のようにそれほど急いでいるわけではないときには、なんとなくさびしくなってしまうのである。
去年、一匹の白いネコを助けてみたら、いつの間にか私に断りもなく四匹に増えてしまったというような話を書いたのだけど、そのネコたちが夜中にもかかわらず結構派手な暴れまくり方をするので、まあ、死ぬほどさびしいというわけではないのではあるが。
今は、静かすぎてさびしいと言うよりも、ネコたちばかりが勝手に騒いでいるものだから、私は仲間はずれにされてしまって人恋しい、という状態が正しいのかもしれない。
正直に書けば、仲間はずれにされてはいるが、ネコたちには感謝しているのだ。
何をどう感謝しているのかと言えば、ホラー映画をひとりで観るときに、とても感謝しているのである。
夜中に誰もいない部屋でホラー映画を観ていると、それはそれはもう、大変なことになるのである。
洋画のホラーは、まあ、それほどたいしたことはない。
女の人や子供やモンスターが、鬼の形相でこちらを睨む程度だからである。
しかし、ここ10年ほどの間に日本で作られるようになったジャパニーズ・ホラーはいけない。
最近のジャパニーズ・ホラーは、はいずってくるのである。
何かわけのわからないものが、ずるずるとはいずってくるのだ。
あんなもの、怖いに決まっている。
あれが怖くないという方はきっと、夜中にひとりきりで、二階にある部屋で作業をしたことがないのだ。
机に向かって作業をしていると、今まさに何かわけのわからないものが階段をずるずるとはい上がり始めているのではないかと気が気でない。
我慢できなくなって、確認のために勇気を出して一階のトイレに行き、よおし、大丈夫! とか思いながら部屋に戻ろうとして階段へ向かうと、今度は今まさに階段の上から何かわけのわからないものがずるずるとはい降り始めているのではないかと考えてしまって、階段を覗き込むことが怖くなってしまうのである。
映画だけの話ではない。
同じようなわけのわからないはいずるものが、ゲームにも出てくるのだからたまらない。
なぜかわからないが家にあった、ナナシノなんとか、というゲームを面白半分でやってみたら、薄暗い3D空間をやっぱりわけのわからないものがはいずってくるではないか。
あわててDSの電源を落としたからよかったものの、あんなものに付き合っていたら最後、私は周囲が全て見通せるワンルームに作業部屋を引っ越さなければならなくなる。
それほど私は、恐ろしい目に遭っているのだ。
二度とJホラーなんか見るものか! と私が決心したまさにその数日後、ネコが私の部屋にやってきた。
ネコの世話をしながら、私は思ったのである。
いくらわけのわからないものがはいずってきたとしても、この柔らかくて暖かくてニャーニャーいう生き物をダッコしていたなら、もしかしたらかなり恐怖を紛らわせることができるのではないか? と。
そこで私は意を決して、まだ四匹に増える前のお母さんネコで挑戦してみたのだが、どうも彼女の方が私に恐怖を感じていたようで、とてもダッコさせてくれるような甘い状況ではなかったのである。
しかし、やはり日頃の行いというものはこういうときにモノを言うのだろう。
柔らかくて暖かくてニャーニャーいう生き物が、ある日突然四匹になったのである。
いろいろと問題は多いのだが、ことホラー映画鑑賞という点においては、この状況はまさしく天からの恵みという他はない。
出エジプト記で飢えた人々の前にマナがぼとぼとと落ちてきたようなものだ。
手のひらの上に乗るほどだった仔猫三匹は、数ヶ月の間にお母さんネコと変わらない大きさに成長した。
ネコ四匹がそこら中にネコ毛を惜しげもなく撒き散らすという予想もしなかった弊害が私を襲ったものの、とりあえず仔猫三匹は私をそれほど恐怖の対象としては考えない程度には、慣れてくれたようなのだ。
三匹の中の、一番なついてくれている仔猫をつかまえて無理矢理にダッコした私は、かねてからの計画通りにその状態のまま、Jホラー鑑賞の態勢に移った。
しかし、私は忘れていたのだ。
仔猫といえども、動き回ることが本来の性質である、動物であったことを。
映画が始まって三十分が経過し、そろそろ最初のわけのわからないものがはいずり始めようかというまさにその時、ダッコしていた仔猫は私の頬に仔猫のくせになぜか異様に鋭い爪でもって数筋の傷をつけたあと、どこかに行ってしまったのだ。
たぶん、仲間ネコかお母さんネコが恋しくなったのだろう。
計画は破綻し、私は二度と観るかと決めていた、はいずるものをなぜかまた、ひとりで震えながら観てしまったのである。
おまけに、そういうときに限って、ネコたちは静かにおとなしくしていて、物音ひとつ立てずに私からは見えないところで、ゆっくりと呑気に寝ているではないか。
天が与えてくれたマナは、実は腐敗していてお腹をこわしてしまったかのようだ。
せっかくお世話してあげているにもかかわらず、もはやネコにさえ頼ることができなくなった私は、それ以来Jホラーは観ていない。
どうしてネコに頼ってまでそんな映画を観ようとするのか、始めからそんなものは観なくてもいいではないか、というご意見もあろう。
確かにその通りであると認めたいところであるが、その意見は、私がJホラーが好きであるという要素を考慮していない。
怖くて仕方がないのに、私はJホラーが好きなのである。
本当は観たいのに、怖くて観られないのだ。
これではまるで、矛盾する心境を抱えて悩みまくる中学生のようではないか。
あの計画遂行の夜以来、仔猫はなかなか私にダッコされない。
おそらく三十分間の拘束が相当頭に来たのだろう。
大丈夫だよ、今日はホラー映画を観るわけではないからね、と説得しても、寄りついてこない。
そういうわけで私は、なんとなく仲間はずれにされてしまい、騒々しい部屋の中でなぜかひとりだけ、さびしい気持ちを味わっているのである。
それならネコが来る前とそう変わらない状況に戻っただけではないかという意見は、間違っている。
騒々しい中での孤独というものは、単独の孤独よりも精神に負担がかかるのである。
その証拠に、ネコが来る前はそうはさびしいとは考えていなかったのだ。
ネコが来たおかげで、さびしくなってしまったのである。
いったい彼らは、この責任をどう取るつもりなのだろうか。
私をこんな気持ちにさせたネコたちに、なんとか責任を取らせたいと思うことは思うのだが、たまにニャーと言いながら足にすりよってくるネコを見てしまうと気持ちがぐらつく、と言うよりもぐらつく段階をすっ飛ばしていきなり転倒してしまうのである。
したがって私は、もはやネコに頼ることはあきらめ、自分の力でさびしさを紛らす方法を開拓するよりは他に、方法がなくなってしまったのである。
その方法のひとつが、このブログであると言ってもいいだろう。
内容もオチもないただだらだらと長いだけの文章を気の済むまで書き散らすということが、それなりに私のさびしさを紛らせてくれているのである。
もうひとつの方法として、数日前からツイッターに手を出してしまった。
ツイッターにはあまり興味がなかったのだが、ネコが相手にしてくれないものだから、半ばやけくそで始めてしまったのだ。
半ばやけくそで始めてみたツイッターだが、少しつぶやいてみて、思ったことがある。
このブログには、わざとではないのだが、プロフィールを載せていない。
私の自己満足だけのつもりだったので、特にプロフィールを載せる必要も感じなかったからだ。
それでもいつの間にか、ブログにあるまじき長文にもかかわらず、それなりの数の人が読んでくれるようになったのである。
私が勝手に考えるにこれは、ブログにあるまじき長文、という部分がけっこう大きいのではないかと思うのである。
世の中は簡単な方向にどんどん流れている。
ホームページよりは簡単なブログへ、さらにもっと簡単なツイッターへ。
そんな流れの中で、まるで正反対の長文というのは、それなりに珍しいものになってきているのかもしれない。
もしそうなら、ありがたい話である。
ありがたい話ではあるが、それはブログだからであって、140文字限定のツイッターでは、同じ手は使えない。
どうせつぶやくなら、少しは誰かに見てもらいたいと、自己満足的に完結しやすい私でも思うのだ。
そうなると、超短文が特徴のツイッターでは、正体不明のままではなかなか人に見てもらうことは難しいということになってしまう。
たとえ一般人の私であろうとも、私はこういう人間ですと自己紹介をしなければ、ネコどころか人間からも相手にしてもらえないのが、ツイッターという世界なのではないか。
そういうことなのだなと、早合点かどうかわからないが、考えてしまった私は、ツイッターのプロフィール欄にこのブログのアドレスと、もう十年ほどやっている私のホームページのアドレスを載せてみたのである。
そうした後で、ツイッターで自己紹介しているのに、せっかくこのブログを読んでくれている方々には自己紹介しないというのは、人間的にどうよ? とも思ってしまったわけである。
特にあなたのことなどどうでもいいです、という方は無視してもらいたいのだが、とりあえず自己紹介のつもりで、以下に私のホームページのアドレスを記しておくので、興味がおありの方はぜひ一度ご覧くださいませ。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kat/
そういうわけで、ネコが相手にしてくれないさびしさを紛らすために、またまた意味のない長文を書き連ねているわけであるが、たかだかホラー映画をひとりで観るのは怖いということと、ネコが相手にしてくれないという愚痴のためだけに、これだけの長文を使ってしまい、それでもそれが許されてしまうデジタルデータはやっぱりすごいなあと改めて思ってしまうわけであるが、こんなことを続けていては近いうちにネコどころか人間にも相手にされなくなってしまうだろうことは、なんとなく私自身もわかってきているわけで、これからは少しは意味のある文章を書かなければいけないと反省はするのであるが、たぶん明日になればまた、懲りずに意味のない文章をだらだらと書き始めるのだろうことも、やっぱり私にはなんとなくわかっているのである。
しかたないのである。
こういうことしかできないのである。
開き直ってしまうのである。続きを読む


